日記

運がよいとか、わるいとか

自分の運に気づいたのは小学生の頃だった。自動販売機で何の飲み物を買うか悩んでしまいそうだったので後ろの人に譲ったら、その人のところで当たりが出た。

生きているとそういうことが多々ある。私の前で売り切れたり、信号が赤になったり、臨時休業だったり、大切な日に生理になったり、クリスマスケーキを転んでぐちゃぐちゃにしたり、よく小指をぶつけたり、逆走してきた車と鉢合わせになったり、レジが壊れたり、部屋の窓が急に割れたり、給湯器が壊れて一週間お湯が出なかったり、退職を伝えたら何時間も詰められて警察を呼ばれそうになったり、普段誰も通らないような道を偶然1人で帰って、偶然車が通って、偶然下半身を露出されたりする。「おまえは、引き寄せる」「おまえは、持ってる」と数えきれないほど言われた。

そういったことがある程度積み重なったあと、特大の運の良さを発揮することに気づいたのは大学受験の時だった。センター試験で過去最高得点を出して、直前までC判定だった大学に合格した。それから数年して、バイクで山を走っているときカーブでこけて転がって、自分の身体が崖っぷちギリギリで止まった。それからまた数年して、ここで一生働きたいと思っていた会社が偶然募集を出していて、偶然転職できた(すぐ辞めた)。

今だって、保険にも入れないし治験も献血もできないし、ふつうに働くことができなくなったけれど生きてる。これは良いことか悪いことかは分からないけれど、運としては良いことに分類されているみたいで、カウンターがゼロになった結果、今もせっせと小さめの運の悪さを重ねる日々が続いている。

たぶん皆んな、死ぬときに集計したら運の良かったことと悪かったことは等しくなっていると思う。どこで使うかは人それぞれだけれど。私の場合、毎日うっすらと運が悪いものの、本当にめちゃくちゃに重要な場面では意外と運が良い、という使い方になっている。たまにどうでも良いことに運の良さを発揮してしまうと、ウワーまた溜めなくちゃいけないとガッカリする。日常的に不幸だけれど大事なところで幸運なので生きるしかなくなってる、ともいえる。