日記

カネコアヤノの前では、ちゃんとしていなければならない

12月の初めに、カネコアヤノさんというシンガーソングライターのライブがある。最近はチケットがなかなか取れなくて、ライブに行けない人が続出しているみたいだ。私は運よくチケットを手に入れて、すでに予定も空けていたのだけれど、直前になってインターネットで顔も知らない人にチケットを譲った。「ありがとうございます」「楽しんできます」なんて言っていたから、たぶんちゃんとライブには行ってくれるはず。カネコアヤノのライブには何回か行ったことがあるけれど、いつもワクワクして楽しい時間が過ごせるから、今回のライブもきっと楽しいと思う。私はカネコアヤノが好きで、このまえ出た新しいCDも、何度も何度も聴いた。ただ、今の私では、カネコアヤノの姿を直接見ることはできない。このまま会ったら、たぶん私は、しばらく立ち直れなくなってしまう。

毎日を必死に生きている人だと思う。人生の楽しいところも辛いところも全て知っていて、それでも「人生サイコー!」と言っている人だと思った。それはすごいことで、辛いことを知っているのに、いつでも心から笑うなんてことは、普通はできない。たとえ笑うことを人から求められているとしても、いつかは潰れてしまう。でも、カネコアヤノは、皆がそれを求めているからと、進むのをやめない。大変なこと、苦しいことは絶対にあるはずなのに、そんなことなかったようにしている。それだけでなく、辛いと思っている人に「辛かったね」と言ってあげられている。

音楽は人を救うとは言うけれど、私はカネコアヤノにはどうしても救いを求められない。すでにもう、たくさんの人が彼女には救いを求めていて、それなのにもっともっとと、カネコアヤノの方からも手を差し伸べているのを見てしまったから。カネコアヤノの曲はとても好きで、何度も聴いている。特に、散歩をしているときと、(暖かい日に)洗濯物を干しているときによく聴いている。それらの作業は、私が人生の中ですごく好きなことだからだ。私がちゃんとしているときだけ、カネコアヤノの曲を聴くことが許される。私にとってカネコアヤノの曲は、追い風みたいなもので、前に進んでいるときには後ろからどんどん押してくれる。だから今はライブには行けないと思った。もし今行ってしまったら、むき出しの傷口に風がびゅうびゅうと当たって、私は痛くてその場にうずくまってしまう。

大切に大切に聴かなければならない。生まれたての赤ちゃんとか小さな子犬を扱うみたいに、きれいなまま、なるべくよい気持ちでいなければ、たちまち私の汚い手で汚れてしまうので。

ライブに行く予定だった日のカレンダーは、空白になっている。たぶん当日までずっと空白で、特に何をすることもないとは思うのだけれど、何かの予定を入れるべきではない日だから、きっとそのまま、何もせずに終わるんだろうな。