日記

2021/12/12のメモ:インターネット死

本を読んでいる。ひどく喉が渇いていて、やっと水を与えられたときみたいに、とにかく活字を貪るように脳みそへ吸収させている。小説ばかりを、2日に1冊のペースで読んでいる。こんな時間がどこにあったのだと驚いているけれど、今まで暇になるとスマートフォンを手にして消費させていた無の時間が、それに代わったのだろうなと思う。本を読んでいると、はっとするような表現に出会うときがある。自分の価値観の狭さを思い知らされたり、反対に優しく寄り添ってくれたりするときがある。そういうとき、私は少しだけ、自分でも生み出してみたいという気持ちになる。でもその気持ちはすぐにどこかに隠れてしまい(たいてい暖かい布団の中にいるので、わざわざ携帯やパソコンを開く気にもなれないのも原因だと思う)、そう思ってしまったことに恥ずかしさを感じ、またすぐ次の本に手を伸ばす。

ここしばらく人生がしんどくて、しんどいときこそ面白くなれるし、もがくほど私らしくなれるのに、今回は何もできずに空っぽのまま生きるゾンビみたいだったので、もうお手上げだった。私が見捨てたら私はもう生きていけないのに、いよいよあなたにはついていけません、というところまで来ていた気がする。まあ、でもいろいろあって、とりあえず津山ぬいは一度殺したが、今はそれでも良いかと思っている。前は今の生活に不満があって、やりたいこともあって、現状を変えなくちゃ、はやくここから逃げなくちゃみたいに焦っていたのだけれど、今、私の中をぜんぶ空っぽにして、部屋が本で溢れるようになったら、このままこの場所に住み続けて、私でもできるような定職に就いて、手に入れた少しのお金で本を買ったり美味しいものを食べたり、気が向いたら自分で何か作ってみたり、たまに都会へ遊びに行ったり、そんな感じで誰にも気づかれないまま、静かに生きるのも良いかもしれないなと思った。今のアパートは、天気がよいと部屋の中に太陽の光がとてもたくさん入ってきて、カーテンレールへ括り付けたサンキャッチャーに捉えられた光が、白い壁をチカチカ照らしている。ヒルナンデスに出てくるオシャレなお店を別の国のように眺めながら、稲が風でゆれる音や蛙の合唱を子守唄にしたり、澄んだ空に広がる山脈に積もった雪がこちらまで吹き降りてくるのを肌で感じたりするのが合っているのかもしれない。最近はインターネットで面白いと思われるような”粋な”言い回しが出来なくなってしまったと強く感じる。インターネットをしていたときに使っていた脳みその部分がすっかり腐ってしまい、人に話を振られても、適当に相槌を打つことしか出来なくなってしまった。