日記

旅館にこもって締め切りに追われた原稿を作成したい

 旅館にこもって締め切りに追われた原稿を作成したい。

 最近頻繁に「旅館にこもって締め切りに追われた原稿を作成したい」と思っている。3時間に1回くらい思っている。

 部屋はあまり大きくなくてよい。畳の上に、ちゃぶ台と文机と、ブラウン管テレビがあればよい。窓の外には険しい山が連なっていて、春なのにまだ雪がすこし残っていたほうがよい。下を覗くと、大きな川が流れているとなおよい。食事は部屋で取る。山で採れた植物や肉、川魚が並んでいる。味付けは濃いほうが、日本酒も進む。そうだ、日本酒は飲んでは駄目だ。原稿をするので。温泉は、硫黄の臭いがしているとよい。白濁だと、なおよい。硫黄の温泉は、締め切った空間だと毒なので、浴場の窓は常に開いている。露天風呂しかなくてもよい。旅館の人は、基本的には放っておいてくれるとよい。ぶっきらぼうなおじさんと、にこやかな女将さんだとよい。深夜、文机の上の小さな電球をつけて原稿をしていると、ドアがノックされる。女将さんが「これ、夜食に食べて」とおじさんが作ってくれたおにぎりを渡してくれる。味噌のおにぎりだとなおよい。

 実は今も締め切りがある原稿を書いているけれど、旅館にこもって書く類のものではない。これは腱鞘炎と集中力との戦いだ。窓の外の景色を見ていて良いアイデアが思いつくとか、すこし気分転換することで劇的に質が良くなるものではない。私の力が尽きるか、原稿が終わるかの勝負となってくる。

 私が旅館で作成したい原稿とは、
 プルルルル。プルルルル。
「もしもし……」
「あっ先生、原稿の進捗いかがですか?」
「うう……す、すみません、もうちょっと延ばしてもらえませんか」
「もうこれで3度目です、次はないですよ」
「はい……」
「今月号、先生の原稿が来ないと発行できないんですからね」
「それは十分承知しています……」
「ではよろしくお願いします」
 ガチャリ。

 こんな感じのやつ。

 ここで編集者が気を利かせて、嘘でも「先生の原稿、みんな楽しみにしているんですよ」なんて言ってくれると、なおよい。

 ちなみに、今の原稿で同じことをすれば「わかりました」とだけ言われて次からは仕事をもらえなくなると思う。私のぶんの仕事が、別の人に行くだけだ。私が死んでも代わりはいるもの……。

 本当は今だって、数か月分の食費を犠牲にすれば、こういった感じの旅館に泊まることは可能で、私はこういう感じの旅館や民宿をいくつも知っている。ただ、肝心の原稿がないので、行く理由もない。文章や漫画を作り溜めておいて、何かの形にしようとも思っていたけれど、今は「これって、需要ある?」のループにかかっているから、作ったものをせき止めておけない。存在意義を示さないとやっていけないので、書いたり描いたりしたら、すぐに放出してしまう。

 こんな欲が出てきているのは、せっかくの春なのに、あまり外に出られないせいだと思うようにする。部屋の中には畳も文机も小さいテレビも締め切りの迫った原稿もあるけれど、見えないふりをしている。今日の夕ご飯はカレーだ。旅館では、夕ご飯にカレーなんて出ない。この部屋には温泉だってない。私の世話をしてくれるのも、私しかいない。